圓光寺という場
山陽道の名刹としての役割
龍野圓光寺は山陽道に近い名刹として、古来、多くの念仏者や文人墨客を迎え、文化の拠点としての役割も果たしてきた。
そんな多彩な来客の中に剣豪の宮本武蔵がいました。
高まる関心と石碑建立
最近、武蔵と圓光寺の深い関わりを知って来山下さる方が多くあります。
このたび、境内に「武蔵修練の地」の石碑を建立しましたのも、多くの方の関心をしっかりと受け止め、圓光寺が初代祐全からずっと保ってきた人間としての生き方の一途さを、武蔵を語りながら皆様と共有したいと念じております。
人間宮本武蔵の透徹した生き方そのものが念仏者の心に通じるものといえるかもしれません。
宮本武蔵修練の地「石碑」
圓光寺道場と宮本武蔵
少年期の修練と龍野滞在
そこで「圓光寺と宮本武蔵」のあらましを伝えることにいたしましょう。
武蔵が十三歳のとき、佐用平福で新当流兵法者有馬喜兵衛に勝ち、十四歳で多くの剣士の集る龍野で旅装を解き、約二年圓光寺道場で鍛錬の後武者修行に旅立ち但馬の兵法者秋山新左衛門に討ち勝ちました。
慶長五年(一六〇〇年)武蔵十七歳のとき、関ヶ原合戦に出陣しましたが戦に敗れ龍野へ帰りました。
この時武蔵十八歳とされています。
多田祐仙と圓光寺流兵法
この頃の圓光寺住職は第六代多田祐仙でした。
多田源氏の系譜を継ぎ、石山本願寺の法難にも果敢に戦った当時の圓光寺にすると武道は欠かせないものとして寺の武芸道場で「圓光寺流兵法」を伝えていました。
武蔵は圓光寺道場で圓光流の兵法を学びました。
圓明一流の成立と伝承
二刀流兵法の創出
しかし武蔵は美作で過ごした少年時代、養父から右手に太刀、左手に十手槍を持つ刀槍術を習っていましたので、その二刀方式を圓光流に加え、「圓明一流」という武蔵独自の兵法を圓光寺道場で創出して定着させました。
二刀によって描く「圓」に完全無欠さを表し、「明」には並みの人に見えないものを見分ける明るさを表したものと伝えられています。
太刀と小刀の二刀で戦う武蔵の兵法はあくまで両手に利き手並み手の力を発揮させるのが基本で「馬上で手綱と太刀を持つ」「狭い場で戦う」「大勢に囲まれる」場面に有効だとしていました。
兵法の完成と後世への影響
武蔵が圓光寺道場で鍛錬していた三年間の間に京へ上って吉岡一門と三連戦を戦います。
その三戦で百人近い吉岡勢に闘い勝ったのも二刀流の成果でした。
吉岡一門との決闘を終えて圓光寺に帰った武蔵は慶長十年(一六〇五年)奥座敷で瞑想しながら初めての兵法書『兵道鏡』を書き上げて武蔵流兵法を確立し、早速、地侍の落合忠右衛門に「圓明一流の兵法」の印可状を与えています。
この後も宮本武蔵は巌流島の決闘を前にして訪れ、佐々木小次郎を相手に想定した鍛錬を行ったと伝えられています。
さらにしばしば圓光寺を訪れて門弟を指南し、多くの弟子に印可を与えています。中でも圓光寺第五代祐應の三男多田半三郎が弟子としてよく知られています。
宮本武蔵略年譜
| 年号 | 西暦 | 年齢 | 関連事項 |
|---|---|---|---|
| 天正 12 | 1584 | 1 | 3月誕生。 誕生地は、印南郡米田村(高砂市米田町)、 揖東郡宮本村(揖保郡太子町)等の説あり。 |
| 天正 16 | 1588 | 5 | 田原家より美作(岡山県大原町)の 平田家(新免家)に養子に行ったとされる。 |
| 慶長 1 | 1596 | 13 | 佐用平福にて初めて試合し、 新当流の兵法者・有馬喜兵衛に勝つ。 |
| 慶長 2 | 1597 | 14 | 圓光寺を訪れ、約2年修行する。 |
| 慶長 5 | 1600 | 17 | 関ヶ原合戦に出陣する。 |
| 慶長 6 | 1601 | 18 | 圓光寺へ帰り、自分の兵法を圓明流と名付ける。 |
| 慶長 9 | 1604 | 21 | 京都にて吉岡一門と試合して勝つ。 |
| 慶長 10 | 1605 | 22 | 圓光寺へ帰った武蔵は、兵道鏡全文28条を纏め、 圓明流を二天一流と改める。 |
| 元和 12 | 1607 | 24 | 武者修行に出る。 |
| 元和 17 | 1612 | 29 | 4月13日、関門海峡にある舟島で 佐々木小次郎と試合して勝つ。 |
| 寛永 3 | 1617 | 34 | 東軍流れの三宅軍兵衛と龍野城下で試合し 勝ったとされる。 |
| 寛永 5 | 1619 | 36 | この頃、龍野藩内の圓光寺で武芸を指南し、 多田頼祐(半三郎)に圓明流の免許を与えたとされる。 |
| 正保 18 | 1641 | 58 | 藩主忠利公の命により、兵法三十五箇条を記して呈出。 |
| 正保 2 | 1645 | 62 | 5月19日没。 |